特集記事

学術的な知見は知的公共財。
研究を通して社会を良い方向に変えていきたい。


慶應義塾大学総合政策学部教授 中室牧子 君

政府や企業と積極的に連携し、教育に関連する事象をグローバルな視点かつ科学的な方法を用いて分析する教育経済学者の中室牧子君。著書である『「学力」の経済学』のなかで「収集したデータを分析し社会の構造を明らかにすることは、自分たちの生活を大きく変えることにつながる」と述べる中室君に、現在の研究活動や慶應義塾の研究環境に必要なものについてオンラインで聞きました。

Q.1 教育経済学とは、どのような学問ですか?

アメリカでは専門大学院もあるメジャーな学問

経済学には医療経済学や環境経済学など様々な分野があります。教育経済学もその一分野であり、応用経済学と言われています。教育経済学とは経済学の実証的な方法と理論を用いて、「教育」という対象を専門的に分析する学問です。
日本ではあまりメジャーではありませんが、アメリカには教育経済学の専門大学院もあり、卒業したら教育関連の職に就く人がほとんど。職業領域でも学問領域でも教育経済学というジャンルが確立されています。私はコロンビア大学の大学院で学んだのですが、一緒に学んだ学生のほとんどが卒業後は研究職ではなく、実務家として活躍しています。

Q.2 現在進めている研究を教えてください。

海外留学の因果的な効果を明らかにする

私は、「どのような教育を受けると、その後成果が出るか」に関心があります。最近では「海外留学に行ったら、その後どうなるか」を追跡調査する研究を、福澤基金の支援を受けて行いました。「トビタテ!留学JAPAN」という文部科学省が主導する留学プログラムにギリギリ通って奨学金をもらい留学した学生と、ギリギリ落ちて留学できなかった学生のその後を追跡し、留学の因果的な効果を明らかにしようとする研究です。
教育経済学というのは世界中で様々な研究者によって研究されています。もっとも有名な奨学金に関する研究は、欧州で政府が行ったエラスムス計画という研究です。留学したグループと留学できなかったグループを比べ、将来の賃金や職業選択、人生の満足度などの違いを明らかにしたものです。
私もこのエラスムス計画と同じ発想で、日本人が留学したときに将来どうなるかを研究しています。日本の教育分野でこのような社会実験を行った研究は、おそらく最初の試みではないでしょうか。まだ途中段階ですが、留学したグループは英語力が飛躍的に向上していること、いくつかの非認知能力や国際的志向が高まっていることが分かりました。さらに追跡調査をして、その後の職業選択や賃金、労働生産性などについても比較していきたいと考えています。

禁煙は企業の人材育成や生産性にどう影響するか

そしてもう一つ、今年から福澤基金で支援していただいている研究があります。ある企業と人材育成をテーマに共同研究しているものです。この企業では社員の38%が喫煙者なんですね。そこで社員が禁煙することで、その後の職場満足度や労働生産性、さらに昇格の早さなどにどのような変化があるのかを調査しています。これら二つの研究内容はそれぞれ違いますが「人を育てる」という共通観点から、子どもから大人までを対象に研究しているところです。

Q.3 研究ではどのようなことを意識していますか?

将来の政策に結びつく研究をしていきたい

エビデンス(科学的根拠)に基づいた研究にすることが大切だと考えています。これまでの教育業界では、どうしても経験者が自分の経験をもとに語ることが多かったのですが、個々の経験は往々にして一般化することが難しいもの。特定の個人の成功体験ではなく、全体を表すデータを分析して、その中から見出される規則性を判断の根拠にすることが大事です。自治体や企業が収集したデータを外部の人間が客観的に検証すれば、その後に成果を再現できる可能性が高まります。
私は「人を育てる」というポリシーのもとで、政策に結びつくような研究をしていきたいのです。先ほど話した「トビタテ!留学JAPAN」では、将来の留学制度や留学のあり方につながるような研究を、そして「禁煙」では、企業の「健康経営」の施策に反映されるような再現性のある研究を念頭においています。

Q.4 科学的に検証した結果、明らかになったことを教えてください。

学力テストの結果ではなく、努力にご褒美をあげると効果的

米国政府が主導し、約10億円の税金を使って行われた大規模な社会実験があります。その効果測定をハーバード大学の研究者グループが検証したもので、「どのように金銭的なご褒美をあげると子どもたちの学力が高くなるか」を明らかにしようとして行われた研究です。
テストの結果に対してご褒美をあげるか、毎日の行動に対してご褒美をあげるか。一般的に大人を対象にした労働生産性の場合は成果に対してボーナスを与えると効果があることが分かっていますが、教育の場合は結果に対してご褒美をあげても効果が出ませんでした。
それはなぜか。子どもはテストで良い点数を取るための方法が分からないからです。だから、読書や宿題をきちんとやるなど、毎日の努力に対してご褒美を与えることが効果的だったのです。このような社会実験をともなう研究をできるところがアメリカのすごいところですね。行政事業があって、その効果を横で研究者が客観的に検証する。そして、PDCAを回して社会をより良く改善していく。私もこのようなスタンスで研究をしたいと思っています。

Q.5 福澤基金は研究にどのように役立っていますか?

公的資金に比べてフレキシビリティの高さが魅力

福澤基金による支援は研究をするうえで大変大きな力になっています。これはおそらく慶應義塾の研究者全員が思っていること。その最大の理由は、公的資金である科研費と比べた場合のフレキシビリティの高さです。
例えば税金が財源である科研費は、申請内容に基づいて使途にかなり厳しい制限が設けられており、使い勝手が悪いと感じている研究者は多いです。研究をやっていると、その都度状況に応じて研究内容を変えていく必要があります。申請時の研究内容に縛られて自由な研究ができないということは、研究生産性の低下につながるのです。
その点、福澤基金をはじめとする塾内助成制度の下で受ける支援はフレキシビリティの高いところが魅力ですね。多くの研究者にとって科研費だけでは研究費用が足りないのが実情です。不足分を塾内研究助成で補えるのは大きく、福澤基金の役割に感謝している研究者は多いと思います。

Q.6 今後、福澤基金に期待することはありますか?

いつ芽が出るか分からない基礎研究にこそ支援が必要

若い研究者を積極的に支援していただきたいですね。世界的に見てもノーベル賞につながるような重大な発見は、若いうちに仕込んだ基礎研究の種から芽が出ることがよく知られています。科研費でも若手研究者の研究生産性は高いという結果が出ています。だからこそ、若い研究者にしっかりと研究資金を回す必要があるのです。
しかしながら残念なことに、現行の科研費はそのような仕組みにはなっていません。申請して採択されるためには、業績がないと受け入れられないからです。これから業績を出していこうとしているのに業績がないと支援してもらえないのでは、制度に矛盾を感じます。少額でもいいんです。フレキシビリティの高い研究費を支援することで、より高い研究生産性が期待できるのではないでしょうか。

Q.7 慶應義塾の研究環境についてどう思いますか?

高みを目指してグローバルに競争できる体制を整えるべき

私は2013年に東北大学から慶應義塾大学総合政策学部に移籍しました。当時はいろいろな部分がオールドファッションだった国立大学から先進的な湘南藤沢キャンパスに移ってきて、四半世紀くらい時代が進んだのではと感じたほどです(笑)。
しかし、しばらく時間が経って周りを見てみると、国立大学は改革が進んでいる印象があります。ペーパーレス化や印鑑の廃止をはじめ様々な事務手続きの簡略化において、慶應義塾は今では国立大学の後塵を拝していると思うことが少なくありません。最も先鋭的であるべき慶應義塾が国立大学に先を行かれるのは良くないこと。常に先端を走っていけるように、関係者一同意識を改めたほうがよいのではないかと思います。
コロナ自粛の折に9月入学の議論がなされましたが、入学時期を9月にしたくらいで国際化できるほど問題は簡単ではありません。そもそも現在の慶應義塾はシンガポールや香港、台湾などアジアのトップクラスの大学と比べて、運営体制の面では残念ながら足りない部分が多いです。充実した英語教育の導入、研究競争力の強化、事務手続きの効率化、SDGsの達成を念頭に置いた学術研究の推進など、本気でグローバルに競争できる体制を整える必要があります。アフターコロナの世界で生き残っていくためにも、もっと高いところを目指して取り組んでいくべきです。

Q.8 塾生に期待することはありますか?

躬行実践ができる人となり、社会を変えていってほしい

福澤諭吉先生がおっしゃった「躬行実践」という言葉があります。塾生のみなさんには、しっかりと議論ができ、自分の意思で行動ができる人であってほしい。そして、これからの社会を変えていってほしいですね。
私はずっと、社会はそんなに簡単には変わらないと思ってきました。しかし、私たちの発信や行動する勇気で、それを少しでも良い方向に変えられるようになると信じたい。慶應義塾で学ぶみなさんには、「躬行実践」を期待します。

Q.9 塾員のみなさまにメッセージをお願いします。

寄付に感謝し、研究を通して次世代の社会を良くしていく

寄付をしていただくことは本当にありがたいことです。みなさまの寄付が私たち研究者の大きな力になっています。私は学術的な知見は知的公共財であると思っています。道路や橋などのインフラは公共財として社会の中で多くの人たちの生活に役立っていますが、研究活動という知的公共財もまた社会を進歩させ、人々の生活を豊かにしていくものです。
とくに次世代の知を育み、より良い社会形成に貢献する。そのために学術研究に一層励み、社会を良くしていきたいと考えています。塾員のみなさまにはご理解をいただき、今後も支援していただければ幸いです。

※掲載内容は2020年7月30日現在のものです。

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