半額半教の危機

教員を半分に? いや、給料を半額に!
慶應義塾消滅のピンチを救った明治の「社中協力」

明治の初め、慶應義塾の塾生はほとんどが士族でした。そのため1871年(明治4年)の廃藩置県、1877年(明治10年)の西南戦争など、士族の生活を大きく変える出来事が起こる度に、慶應義塾の経営は厳しくなっていきました。『慶應義塾略史』によると、明治6年には10,446円70銭(現在の約1.3億円相当※1)あった収入が、 明治10年には5,226円(現在の約4,700万円相当※2)余と半減してしまいました。

福澤先生は経営難を乗り越えるため「教員を半分に減らそう」と提案しました。それに対し、当時教員だった鎌田栄吉(後の文部大臣)は「教員を半減させては、番頭が並んでいない呉服屋のようにさびれていく。教員の給料を半額にしよう」と申し出ます。しかし、そこまで努力して経費を落としても、財政は極めて厳しい状態を脱することができませんでした。
福澤先生は遂に、幕末以来義塾の運営で苦楽を共にしてきた小幡篤次郎に、1880年(明治13年)9月頃、廃塾の意志を告げます。

これに納得できない人々は、独自に資金集めを始めます。小幡篤次郎、阿部泰蔵、浜野定四郎、荘田平五郎、松山棟庵、小泉信吉、中上川彦次郎は連名で「慶應義塾維持法案」を作成し、”慶應義塾のこれまでの歴史は「世に益したるもの」であり、「私立」であることを維持しつつ教育体制を守るためには、「同志社中」に各の家産に応じ拠金を乞うのが唯一の方法である“と呼び掛けました。

翌年には寄付者を「慶應義塾維持社中」として、理事委員など運営組織を定めた「慶應義塾仮憲法」が制定され、寄付金は1881年(明治13年)12月から翌年5月までの申込総額が44,365円(現在の約2.5億円※3、4)に達しました。
社中協力が、廃塾のピンチからギリギリのタイミングで救ってくれたのです。

(※1,2,3)朝日新聞社「値段史年表」に記載された白米価格と、総務省統計局「小売物価統計調査」うるち米10kg価格2019年12月時との比較により算出した。前者は明治5年、後者は明治15年の数値をそれぞれ代用した。
(※4)明治19年までの払込額は21,404円。