男女平等の精神で自立した人材を育み、
社中の協力によって革新を続ける慶應義塾
――慶應義塾 福澤研究センター 西澤 直子 君
慶應義塾創立125年や150年、福澤先生歿後100年の記念事業に携わり、現在は福澤研究センターで福澤諭吉先生の女性論・家族論を研究する西澤 直子君に、福澤先生が唱えた男女平等、独立自尊、社中協力の精神について、話していただきました。
創立125年を機に誕生した福澤研究センター
福澤研究センターの前身は塾史資料室になります。同室は『福澤諭吉全集』や『慶應義塾百年史』の刊行に際して集めた、数多くの資料を保存管理する目的で発足しました。その後創立125年を迎える頃には、日本でもアーカイブズという概念が浸透し、資料をただ保管するだけでなく、研究に活用しようと、塾史資料室から「福澤研究センター」(以下センター)に改組されました。以来センターでは、福澤先生や慶應義塾に関する資料を、顕彰目的ではなく学術的に利用できるよう、試行錯誤しながらも保管やデータ化に取り組み、研究や教育に貢献することを目指して来ました。
私自身は大学院に進学後、指導教授が創立125年記念展の中心的役割を担われた関係から、センターの仕事を手伝うようになりました。展覧会準備や記念刊行物の編纂を通じ、修士論文では長州藩尊攘派が題材であった研究テーマが、いつのまにか「福澤諭吉」や「慶應義塾」になっていきました。
センターは文系だけでなく、理系も含めすべての学部研究科の教員が関わり、福澤先生や慶應義塾を核に、学際的な研究活動が行われています。もちろん所員や客員所員にはアジア、ヨーロッパ、アメリカ各国の方もいて、国際的にも広がっています。
福澤研究センター所蔵 『芝新銭座慶應義塾之記』
慶応4年、まさに明治に変わる直前に発表されたものです。洋学を学ぶことは「公」であると位置づけ、ともに学ぶ者を募るとともに、この書で初めて「慶應義塾」と名付けられました。
男性も女性も、辛子は辛く砂糖は甘い
私は当初、福澤先生の地方自治論に関心を持っていたのですが、勧められて福澤先生の女性論や家族論を読み始めると、とても魅力を感じました。家族のあり方は、社会を形作る基本であり、特に家族の中での女性の立場は、近世社会から近代社会への変化、さらには私たちの社会の未来を考える、重要なテーマであると思いました。
福澤先生の女性論や家族論は、高く評価する声が多くある一方で、反対の意見もまた多数あり、賛否両論が継続して起こっているのは、興味深いところです。一般に江戸時代に正統な学問であった儒学では、女性は男性より判断力が低いとされ、男性たちはそれを信じていました、福澤先生は「男性に出来て女性に出来ないことはない。」「身体的特徴に相違はあるけれども、辛子は男性でも女性でも辛いし、砂糖をなめれば男女を問わず甘い」とわかりやすい例を用い、ほぼ同数生まれてくることを男女同等の根拠に挙げるなど、誰もが男女は等しいと理解することを目標にしました。また今でいうジェンダーの概念を持ち、女性の地位を向上させるためには、男性の意識改革が必須であると述べます。世間体を気にして行動に移せない人に対しては「勇気なき痴漢(ばかもの)」と一刀両断ですが、2021年の日本の男女平等度(The Global Gender Gap Index)が156か国中120位であることを考えると、まだ「勇気なきばかもの」たちだと怒られそうです。
福澤諭吉『女大学評論・新女大学』
福澤先生は女性の地位に関するご自身の考えを広めたいと、多くの知人や門下生にこの本を贈っています。
ジェンダーの視点から、女性だけの問題とせず、男性たちの意識を変えなければならないと、見返しには「男子亦この書を読むべし」と書かれています。
福澤諭吉「日本婦人論」草稿
女性が結婚によって、夫の姓を名乗らなければならなくなるのはおかしい。
新しく作る家族には、新しい姓がふさわしいと述べています。
学ぶことは「公」である
福澤先生は66年の生涯のうち、江戸時代を33年と明治時代を33年間生きています。幸運にも幕末に3度の洋行の機会に恵まれますが、そこで先生が感じたのは、教育の重要性でした。幕藩体制の崩壊を受け、未来に対し自分や「塾生」たちは何をすべきか、担うべき役割は何か。先生は塾に初めて「慶應義塾」と名を付け、新たな時代に向かって出発しました。
命名時に発表された「芝新銭座慶應義塾之記」では、仲間と切磋琢磨しながら学問をすることは「私」ではなく、「公」であると宣言します。ゆえに身分に関係なく、志ある者は来学して欲しい、と。先生は新しい社会は、個人の自由と独立が尊重され、個人が主体となって、交際を通じて形成するものでなければならないと考えました。そのためには、個人が「一身独立」、すなわち精神的にも経済的にも自立する必要があり、特権階級に限らず、誰もが学ぶことができる場が必要でした。「一身独立」の精神が、今日の「独立自尊」の言葉につながっています
社中協力のもと独立自尊の人を育みつづける
明治10年を過ぎたころから、義塾の経営が傾いてくると、福澤先生は徳川家をはじめ旧藩主や政府に資金援助を要請します。これは、教育が「公」であることを守るためです。「公」である教育には、政府の資金も導入されると考えていました。しかし政府は支援を断り、福澤先生は自ら廃塾の宣言をするに至ります。
その時義塾を救ったのは、社中の協力でした。まだ塾に名称がなかったころから先生に協力し、先の「芝新銭座慶應義塾之記」を執筆したといわれる小幡篤次郎らが中心となって、資金集めに乗り出しました。ただし、福澤先生は闇雲にお金を集めてはいけないともいいます。「一身独立」の人材を輩出していくという義塾の精神を理解したうえで、塾を維持するために、知恵を出せる人は知恵を出し、資金を出せる人は資金を出す。それが義塾の社中協力であると。慶應義塾は、まさにそうした社中の協力によって幾多の困難を乗り越えて、今日まで発展してきました。
福澤先生は蚕卵紙を例にとり、よい卵からよい卵を作り、さらによい卵を作るのでは意味がない。卵を蚕にし、糸を取り、絹を作ることが重要であるといいます。しかし絹ばかりになって、次の卵がなくなってしまえば、やはり意味がありません。
今こそぜひ、義塾を卒業し社会で活躍されている方は、研究にフィードバックしていただき、義塾はその支援をもとに社会に貢献できる人材を輩出していく、そのような循環が必要であると思います。
※掲載内容は2022年10月4日現在のものです。