インタビュー:斉藤 源久 君/株式会社祥平館 特別顧問

独立自尊の精神で取り組めば、
何でもできる、誰とでもつながれる。
――株式会社祥平館 特別顧問 斉藤 源久 君

慶應義塾中等部入学後、慶應義塾高校、大学へと進学し、10年間を慶應義塾で学んだ斉藤 源久君。大学卒業後は積極的に塾員との交流をはかり、最も多いときで7つの三田会に所属。現在も複数の三田会で活動を続ける齊藤君に、塾生時代の思い出や慶應義塾とのつながりについて聞きました。

Q. どのような学生時代を過ごされましたか?

A. アマチュア無線研究会や応援指導部に入っていました。


慶應へは中等部から入学しました。中学時代の思い出はアマチュア無線に没頭していたことですね。先生に感化されて無線研究会に入り、アマチュア無線の資格を取ったことで一層のめり込み、結局大学生のころまで続けていました。ところが四谷の自宅を新築したとき、この辺りはお屋敷が多かったんですが、建物にアンテナを立ててはいけないと言われましてね(笑い)。当時はアマチュア無線が盛んだったころなので、お屋敷の中にアンテナを立てられた方も多かったんじゃないでしょうか。
慶應義塾高校では応援指導部に入部して、野球部の応援で甲子園に行くことを夢見ていました。高校1年のときは夏の神奈川県大会を決勝戦まで勝ち進んだのですが惜しくも負けてしまい、あと一歩のところで甲子園行きを逃します。2年生のときは準決勝で惜敗し、やはりもう一息届きませんでした。そして最終学年である3年目の夏。なんと、1回戦で公立高校にノーヒットノーランで負けてしまい、県予選で応援する機会もなくなってしまったんです。それに比べて軟式野球部は、なんと全国優勝の快挙。どうやら、いい選手が軟式のほうに集まっていたようでした。

Q. 卒業後の進路について聞かせてください。

A. 家業である旅館に入り、経営を引き継ぎました。


大学時代から家業の旅館の仕事を手伝っていました。火・木・土曜日は朝から魚河岸へ仕入れに行き、授業の1限目はあまり出ていなかったですね。当時は大学4年の5月から就職活動で企業訪問が許されていたのですが、5月の初めに父が宿泊業者の大きな集まりの最中に倒れて入院。しばらく療養した後で治って家に帰ってきたときには、就職試験がほぼ終わっていました。それで大学卒業と同時に父親が経営する旅館『祥平館』に入社したんです。なんだか仕組まれたようですね(笑い)。
うちの旅館には、1972年に赤瀬川 原平さんや南 伸坊さん、松田 哲夫さんが路上観察で発見し、「超芸術トマソン」としてメディアにも取り上げられた「四谷純粋階段』
があります。この階段は戦後焼け残った建築物で、祖父が1948年に旅館業を開業する以前に「軍用図書出版」の事業を行っていたときの名残です。召集令状を受け取った人たちが、入隊する前に軍人用の教科書を受け取りに来る出入口に通じる階段でした。戦争が終わり、建物が旅館になった際に出入口が閉鎖されたため、この階段が無用の造形物になってしまった。言うなれば、この「トマソン階段」は平和の世の象徴なのです。
◆超芸術トマソン 赤瀬川 原平らの発見による芸術上の概念。不動産に付属し、まるで展示するかのように美しく保存されている無用の長物。存在がまるで芸術のようでありながら、その役にたたなさ・非実用において芸術よりももっと芸術らしい物を「超芸術」と呼び、その中でも不動産に属するものをトマソンと呼ぶ。

Q. 旅館経営で印象深かった出来事はなんですか?

A. 多くの有名スポーツ選手が宿泊してくれました。


うちの旅館がある四谷は国立競技場や神宮球場に近いので、スポーツ関連の団体やお客様によく宿泊していただきました。ボストンマラソンに出場する選手の方たちが神宮を中心に合宿するときに宿泊されることも度々でしたね。1952年のヘルシンキオリンピックや1956年のメルボルンオリンピックの際には東京にまだホテルが少なかったこともあり、日本選手団の方たちがうちに宿泊してから競技に出発したものです。
大学野球選手権では慶應こそ泊まりませんでしたが、東北福祉大学や近畿大学など地方のチームがよく宿泊してくれました。明治神宮野球大会の際には、後に読売ジャイアンツやニューヨーク・ヤンキースでプレーした松井 秀喜選手がいた星稜高校もうちに宿泊して優勝しています。社会人の都市対抗野球でも宿泊してくれるお客様はほとんどが地方のチーム。どうしてもお客様を応援するようになりますから、地方びいきで「アンチ東京」になってしまうんですね(笑い)。
プロ野球でも広島東洋カープが在京球団と対戦するときには必ず宿泊していました。当時、山本 浩二選手や衣笠 祥雄選手が旅館の外で素振りをしていると、近所の子供たちが大騒ぎしていたのが懐かしいですね。

Q. 旅館三田会の会長を務めていらっしゃいました。

A. 多いときには7つの三田会に入っていました。


旅館三田会の会長は約6年やりました。大変残念なことですが、バブル崩壊によって塾員が経営していた旅館がかなり減ってしまいました。全国の観光地で一番か二番目に大きな規模の老舗旅館ばかりでしたが。やはり老舗の経営者というのは私もそうですが、野球で言うところの「中継ぎピッチャー」だと思うのです。先代が築いたものを確実に次世代に引き継いでいくこと。それが課せられた使命ではないでしょうか。
三田会というのは慶應義塾ならではの良いシステムだと思います。大学卒業後も地域、職業、学年などで塾員同士のネットワークができる。私は旅館三田会のほかに不動産三田会や新宿三田会など、最多で7つの三田会に所属して塾員と交流してきました。新宿三田会では最初の忘年会に出席したときに、当時はまだ珍しかったカラーテレビが当たってしまいましてね(笑い)。
旅館三田会やホテル三田会、旅行三田会、JTB三田会などの塾員とは連携しながら仕事をしてきました。まったく初対面でも塾員だとわかると、会話が広がり、お互いが打ち解け、つながりができていくのが三田会の良いところです。

Q. 慶應義塾とのつながりを感じることはありますか?

A. 塾員は独立自尊の精神でつながっていける。


旅館組合や青年会議所などで大学卒業以来、久しぶりに旧友と再会することもあります。また、地元の不動産関連の集まりが年に1回あるのですが、その中にいる塾員のおかげで再開発案件に参加することになりました。「塾員」というだけで仕事につながるというのはありますね(笑い)。
塾員の根底にあるのは、やはり「独立自尊の精神」ではないかと思います。面白いことに三田会も、みんなで寄り合う割には個人個人が独立した考えのもとで互いに尊重しながら思ったことをやる。一人ひとりがしっかりした信念を持っていれば、福澤 諭吉先生の思想である独立自尊の精神が備わってくるものではないでしょうか。最初は意見が合わない相手でも、仲間付き合いを重ねるうちに良い会話ができるようになる。つながらないようで、つながっているんですよね。
慶應義塾のつながりと言えば、塾生の支援についても私たちにできることがあると思います。勉強をはじめ学生生活を充実できるよう塾員がサポートしていく必要があるのではないでしょうか。そういう環境の中で塾生のみなさんは、自分がやりたいことを思い切りやってほしい。それを私たち塾員がしっかりサポートしないといけないですね。


Q. 塾員のみなさんにメッセージをお願いします。

A. 大変な時代だからこそ社中の協力で乗り切りましょう。


このようなコロナ禍にあって、本当にみなさん、大変だと思います。これから先も社中のみんなで協力して、良い世の中、良い日本をつくっていきましょう。そして、それぞれの地域で生き残っていきたいですね。生きていれば何でもできる、誰とでもつながれると思います。お互いに頑張っていきましょう。

※掲載内容は2020年10月23日現在のものです。

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