特集記事

山形には、慶應卒業生が活躍できる舞台がある。山紫水明、文化の豊かな山形で暮らしてみませんか。
――山形三田会 吉田 眞一郎君


現在、山形県公安委員会の委員長を務められている吉田君。
地元・山形の魅力と、山形で活躍されている様々な分野の方々について、お話を伺いました。

Q1. 在学中に学ばれていたことについて教えてください。

反権力の風の中、実証的な経済学を学んでいました。


僕らは団塊の世代でしてね、昭和23年、1948年生まれなんですが、僕の一つ上の世代から団塊の世代と言います。

昭和42年に県立山形東高を卒業し、慶應義塾大学経済学部へ入学しました。在学中は大学紛争の時代でした。学費値上げと食堂の値上げに対して、大反対運動が起きました。慶應では、それがいわゆる「大学紛争」の始まりでした。
小田 実さんが中心のベ平連の活動の一環として行われたフランス式デモに参加したこともあります。新宿西口広場で高石 ともやさん、岡林 信康さんなどのフォークソングの集まりがあって時々参加しました……当時は、社会全体に反権力の空気がありましたね。

3年生になると、伊東 岱吉先生主宰の20人ぐらいのゼミに入りました。ゼミは伊東先生の専門である実証経済学を学ぶことが中心だったのですが、マルクス経済学が盛んな時代でしたから、ゼミの中にも革命的な学生がいて、「ゼミ粉砕」などの穏やかでない言葉も飛び交っていました。サブゼミで資本論の講読をしてくださった助手の先生の授業が潰されてしまったこともあって……その先生が後に法政大学総長を務められた増田 壽男先生でした。そういう時代でした。


三田祭で発表する為のゼミの共同研究では、当時まだあまり認知されていなかった公害をメインに、横浜市の大気汚染の研究に取り組みました。実地調査で家庭訪問をして、大気汚染の実態を調べるなど、地道な活動を積み重ねました。横浜市も歓迎してくれて、ゼミの発表には市からも担当の人が来てくれたりしましたね。「公害と関連する経済学」など、先駆的なことをやっていました。

また、経済学部に野地 洋行先生がいらっしゃって、この先生の社会思想史の講義を聴講した時は、「これが大学の講義だ」と感動しました。僕は不良学生だったのですが、この先生の授業だけはしっかり出て、ノートも取って……慶應にはすごい先生がいるな、と思ったものです。
井村 喜代子先生という社会政策の先生の講義も面白かったのを覚えています。慶應は比較的、活躍されている女性の先生が多かったと思います。

Q2. 当時の生活について聞かせてください。

仲間に恵まれ、思い出深い学生時代を過ごしました。


日吉に住んでましたが、3年生になってからも三田へ日吉から通っていました。いい下宿でね、おばさんもいい人だったので、下宿で同期の仲間もみんなそこから三田に通っていたくらい、離れがたい下宿でした。おばさんは僕の結婚式なんかにも来てくれてね。

思い出深いことといえば、三島 由紀夫の自衛隊乱入事件が大学4年生の時に起きました。ゼミの仲間と三田キャンパス近隣の商店街で昼ごはんを食べていたときに事件のことを聞いたのを、今でもよく覚えています。
大学3年生の時には、アメリカのアポロ計画の月面着陸がありました。「白十字」という喫茶店のテレビで、仲間と一緒にテレビで見ていたのです。
今でも「白十字でみたよなぁ」「三島由紀夫の一報が入ったなぁ」と、ふと思い出します。

マンドリンクラブにも2年間だけ所属していました。音楽の才能に限界を感じて、3年生になるときに辞めてしまったのですが、当時の仲間とは今でも家族ぐるみの交流があります。OB名簿にも僕の名前を載せてくれているそうです。
他の仲間も色々な業界で社長をやったり、役員をやったりと活躍しています。仲間に恵まれていました。

Q3. ご卒業後の進路はどのようにされたのでしょうか。

家業の会社で、社長を務めています。


卒業後は東京の印刷会社に入り、同じ事業部に配属された、大学も様々な4人の同期と一緒に働いていました。当時の同期とは今でも仲良くしていて、僕が上京すると一緒に飲みに行ったりします。
4年働いた後に、実家の紙屋に戻りました。紙屋と言っても、印刷も文具の卸も扱う地方の総合商社です。やがて、段ボールを取り扱う関連会社に異動し、平成2年から社長を務めています。
段ボールは運送費の占める割合が多いため、地場産業になる傾向が強いです。ずっとやっていると変遷が大きく、販売先の中心は変わっていきますが、いいお客さんに恵まれてきたと思います。

私の次男は慶應に進学したのですが、地元に戻ってきてくれて、今の会社の役員をやっています。嬉しいことです。

Q4. 山形三田会の魅力について教えてください。

出席率が高く、他大学との連合イベントも多数。大変活発な三田会です。


今は山形三田会の会長をやっています。酒田三田会、鶴岡三田会、そして山形三田会と、山形には3つの三田会があります。山形三田会は6月に総会、12月に忘年会があり、会員数220名に対して毎回70名ほどが参加します。出席率がとても良いのです。
早稲田の校友会山形支部長が、私と高校の同級生で仲良くしており、2年に1回、早慶で交流会をやっています。早慶ゴルフコンペ、東京六大学ゴルフコンペなどもやりますよ。今年は東京六大学コンペで慶應は2位でした。人数の多い早稲田・明治を抑えての2位です!
また、東北の地域三田会による合同三田会「東北連合三田会」も、毎年行われています。長谷山塾長もいらっしゃいます。このように、他大学・他県の方々との交流も交えながら活発な活動を行なっているところが、山形三田会の魅力です。
転勤族の方もよくいらっしゃいますし、若手の参加率が高いのも特長だと思いますよ。山形は魅力あるところです。是非、次世代の方たちにも活躍してほしいと思います。

Q5. 山形の魅力について聞かせてください。

芸術・スポーツ・伝統文化が充実。面白いことがたくさんあります。


山形市は人口25万人ほどの非常に住み良いところです。
山形交響楽団というプロオーケストラがあるのですが、プロオーケストラを持っているのは東北では仙台と山形だけです。山形の誇りです。定期演奏会には毎回行っています。
サッカーではモンテディオ山形というJ2チームがあります。J2以上のチームは、やはり仙台と山形にしかありません。
また、映画館が多いです。山形市はユネスコの「創造都市ネットワーク」に映画分野で選ばれています。国際ドキュメンタリー映画祭を2年に1回やっているほか、ミニシアター系の映画にも観客が集まっており、山形の観客の鑑賞力の高さが窺えます。
東北芸術工科大学という芸術系の大学があり、学長は中山 ダイスケ先生というデザイナー、(奥様は女優の鶴田 真由さん)、理事長は映画監督の根岸 吉太郎さんと、先進的なアーティストが活躍しています。
そんな、面白いところなのです。文化的には非常に充実しています。

そして、山形には料亭文化がまだ残っています。「日本庭園を楽しみながら料理を食べる」という……東北で料亭文化を残しているのは山形・新潟くらいなのではないかと思います。
20年前に「舞妓さん制度」が出来まして、舞妓さんを会社員という形で雇用を守ることで、料亭文化を維持しています。
私は青年会議所の有志と30代の頃、山形の芸妓さんを師匠とした小唄を習う会を始めました。会員数は16人です。この会は30年以上経過し、師匠が90代になってもまだ続いており、小唄の会の会員からは山形商工会議所の会頭も輩出しています。

Q6. 塾員・塾生の皆さんへ向けて、メッセージをお願いします。

慶應で広めた見聞を、地元で活かしてみませんか。山形経済界では私学出身者が活躍中。OBも頑張っています!


慶應義塾大学の学費って、決して高くないんですよね。文系学部はほかと比較してもそう高くない。奨学金も充実しています。雑誌の記事などによれば、学生数に対しての教員比率は高く、教育環境は良いようですね。
しかし山形の場合、東北大学を目指す高校生が多いのが実情です。そこで是非、卒業生が社会で活躍している割合、慶應OBの活躍を見てほしいです。山形商工会議所の会員を見ていると、私立大学出身者が頑張っていることが分かります。自分自身も、人生の手本となるような慶應の素晴らしい先輩達を見てきました。

慶應が「関東のローカル大学」になってしまうのは寂しく思います。「地方から慶應に進学し、地元に戻って活躍する」という方が少なくなってきているのではないでしょうか。
東京で見聞を広めるのは、人生に必要なことです。何ものにも代えがたい、生涯の友にも出会えるでしょう。そこで学んだ成果を、是非地元で活かしてほしいのです。ベンチャーを設立しても良いし、いくらでも就職先はある。山形は山紫水明、綺麗なところです。
OBも頑張っています!

※掲載内容は2020年1月29日現在のものです。